海外から届くテロのニュースを見るたび、
以前はその政治的な効果に疑問を抱いていた。
如何なる理由があろうと人命を犠牲にする行為を容認できるはずもない。
そうした道義的な側面はおくとしてもだ(この非人道性さえもが、より多くの人命を
結果として損なう人災としての悪政の打破という名目で相対化されてしまうのだが)。
政府高官や政治中枢を直接狙う攻撃ならば、まだ理解も出来る。
しかし、無辜の民を殺害していったい何になる?
現政権の転覆をはかり、
自分達の理想とする社会を実現するのが彼らの最終目的であるならば、
将来の被支配民を敵に回す行為は愚劣としか言いようがないではないか。
だが、昨今の日本社会の閉塞感の中に身をおいてみると、
彼らテロリストの行動原理がいささか理解できるような気がしてきた。
完璧な政治など存在しない以上、大多数の国民は現政権に何らかの不満を持つ。
彼ら国民がテロリズムに走る一部の過激派と異なるのは、
その不満が生活や家族を投げうってまで解消すべきレベルに到達していない点である。
そして、そのいわば消極的な支持が現政権を存続せしめている。
テロリストにとっては、テロに走らない国民すべてが政府に加担する共犯者なのだ。
民主制であるなしを問わず、政治闘争において数は力である。
従って、革命を志向する者に未だ十分な力が備わっていない状況において、
彼らに当面有効な戦術は、国民多数からの共感や同情を集めるよりもむしろ
生命や財産を保障できない無能な政府へ国民の怒りを爆発させることなのではないか。
現政権やあるいは政治そのものが失策や無能により国民からの支持を失っているほど、
その爆発へのハードルが低くなるのは道理である。
いくつかの条件がそろえば、この日本でも革命の成否やその後の展望はどうあれ、
手段を問わない変革を志向する勢力とその理念に共感する層が現われる可能性は十分ある。
そしておそらく直接自分達の生存がかかっているだけに、
かつての学生運動のような幼稚で無計画なパフォーマンスにとどまらない
周到で徹底した闘争となるかもしれない。
富の再配分が十分に行われなくなった「格差社会」の真の恐ろしさはそこにある。
- 2009/01/10(土)|
- 雑草
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